映画『ノーマ、世界を変える料理』を見た
京都シネマで上映してたものを見に行った。今の自分にとっては凄く元気の出る映画だった。「良い作家はたくさんの語彙やそれを使うための言葉を知りつくしているのと同じように、良い料理人は食材を知りつくしている」みたいなフレーズにグッときた。内容自体はドキュメンタリーだけど、登場する料理や、皿につく水滴、ソースを垂らしたときの広がり方など、細部が美しい。食材を探すために北欧の森の中を歩くところも良かった。
他には「その土地の旬の食材を食べていれば今がどういう季節なのかがわかる」というのが素敵だなあと思った。食材はスーパーなどで一年中手に入るが、そうではなくて近くで取れた旬のものを食べるのがいちばんおいしい。一年に一度の旬を精一杯楽しむのはすごく豊かだな…と思った。できるだけ、京都産の食材を買いたくなった。日曜日はできるだけ大原に行くようにしよう。
一流の人がなぜ一流かというと、知識への追求が留まらないからだろう。これは料理だけではなくてデザインにも言えるし、あらゆることにあてはまる。日常はぼーっとしてるとなんとなく流れていくが、瞬間瞬間で適切な問いが立てられるようにしたい。物事を消費することを目的にするのではなくて、素直な感性でその過程を楽しめるようになりたいな。世の中はわからないことだらけだが自分で確かめるしかない。歩いていく道がでこぼこ道なら、自分で足場を整えて進むしか無い。
その行為に「嬉しさ」はあるか
わたしは、小さい頃から一度たりとも部屋を綺麗に保てたことがない。根っからのクズか、それとも片付ける能力がないのかはわからないが、とにかく整理整頓が苦手だ。
それで、週末ちょっと花を買ってみて、花は綺麗なのに部屋が汚いと元も子もないな、と思って部屋をすこし片付けた。と言っても出してたものを適当に箱に入れただけだけど。そして今日、片付けたことすら忘れて帰ってくると、家が、すごくすっきりしている…!ということに感動した。部屋が片付いているって、こんなに嬉しいことなのか…! 25年生きていて初めての発見である。
わたしにとっての「整理整頓」というのはとにかく嫌なもので、特にメリットもないものだった。何をどうしたらいいかわからないし、こんなに嫌な感じがするのになぜみんな普通にできるのか不思議だった。親に怒られるからやるか、友人を呼ぶときにダメな人間だと思われたくないからやるかのどちらかである。やってもマイナスがゼロになるくらいの立ち位置。それがなんと今日、「すっきりしているとめちゃくちゃ嬉しいぞ!」ということに気がついたのだ。(大袈裟)
考えてみると、「嫌いだしメリットのないこと」ってなかなかできない。今までのわたしにとっての整理整頓は「嫌いだしメリットのないこと」だった。世間的に後ろめたいからやっていたが、そりゃあできないよなあと。けど、今日「整っていることは嬉しいこと」っていうのに気がついて、ちょっとはできるかも、って気分になってきた。
めんどくさいことを嬉しさに昇華できたら、普段の生活がもうちょっと楽しくなりそうだ。「嬉しさドリブン」みたいな考え方、あまりしたことはなかったけど、なかなかおもしろいかもしれない。
バランスを崩している
2週間ほど、落ち込みが続いている……。
何かひとつがうまくいかなくなると、とたんに全てのバランスが崩れてしまうような、そんな感じ。
忙しくしない、新しいことを始めない、失敗するかもしれないことは避ける、完璧を目指さない、みたいなのを地道にやってたらもとにもどるかな。とにかく失敗したくないし怒られたくない、のである。困ったことは困った!って言うことからはじめてみようかな……。
そういえば、D-BROSのフラワーベースを買ったのでお花を。
部屋の一部が綺麗だと純粋にうれしい。
平日はあわただしくて買って帰るの難しいけど、休日はゆっくり買いにいく時間を持てるようにしたいな。
フーフのロール
「夫が居間で客人の相手をしている横で、妻は台所で料理の準備や後片付けをする」
昔ながらの夫婦感というと、こんな感じだろうか。「男女平等」という教育をされて育ったわたしは、この価値観がよくわからなかった。不公平感というよりかは、「女の人はなぜ黙って尽くすことができるのだろう? 」という疑問があった。どうして、楽しそうなことをしている横で黙々と作業がこなせるのだろうか。こどものわたしは、大人になって結婚すれば、自然と割り切ることができるようになるのかと思っていた。
先日とても素敵な夫婦を見た。その夫婦は、田舎に住む昔ながらの夫婦である。奥さんは、旦那さんが客とお酒を飲んでいる横で楽しそうに料理をしている。そこに「仕方ないからやっている」ような印象はない。よく見ると、旦那さんはつねに奥さんのことを気遣っている様子である。今何をやっているかは把握しているし、時おり話しかけたり、ビールを差し入れたりしている。準備ができると、奥さんは席に混じって楽しそうに話をするし、チャーミングに冗談を言ったりする。
もしかすると、夫婦というのはロールなのかもしれないな、と思った。ロールと言うと難しいけど、例えば仕事のチームなんてのはディレクターとプレイヤーがいたりする。ディレクターは手を動かさないが、プレイヤーより立場が上かというと、必ずしもそうではない。ディレクターというのはロールである。(まあ、現実的には立場が上の人がディレクターを務めることのが多いのだろうけど、概念的にはそうである必要はない、というのを言いたい)
夫婦は、同じ目的を持ったチーム。仕事での関係がそうであるのと同じように、チームは信頼関係があって初めて成り立つ。お互いがお互いのことを尊敬する必要がある。わたしが、この夫婦を素敵だなと思ったのは、その信頼関係が感じられたからだろうか。尊重し合える仲は美しいよ。
あ、もちろん、この男女のロールの分け方だけが不変の真実であると言いたいわけではない。現代に生きているのだから、ロールのあり方は三者三様でいい。二人ともがプレーヤーであってもいいし、日によって交代してもいい。大切なのはチームとして前向きかどうかである。ただ、相手を尊重する気持ちがないのにロールだけが形式ばっているのは、しんどいことかもしれない。
坂の風景
豊島が好きだ。中でも、唐櫃港から少し坂を登ったところにある、坂の風景がとくに大好きだ。
家浦港からこの坂に向かうと、急なカーブの入り口がどーんと飛び出して、左手には美しい棚田が、右手には豊島美術館が見える。
この坂を自転車で下るときの、海吸い込まれちゃうんじゃないか、っていう瞬間が好き。
気がつけば、何枚も何枚も、このアングルから撮っていた。
わたしは、豊島は三度目なんだけど、過去の写真を見ていると、同じアングルから撮っているものがいくつかあった。
2013年3月(瀬戸内国際芸術祭)
2011年3月
このころは、5年後に一人旅してるだなんて、思ってもみなかっただろうなあ。
性格や考え方は少しずつ変わっているけれど、好きな風景は変わらないみたいで嬉しかった。
飽きやすい性格だし、どんどん変わっていきたいとも思っているけど、変わらない部分もある。そういうところも大事にしていきたいな。
何かをするために何かをやめる
この数ヶ月、ちょっと忙しくしてしまっています。まあ、それはちょっとの間がんばればいいので、置いておく。それで、問題なのはやりたいことはたくさんあるし、読みたい本はどんどん出てくること。忙しい中でどうやって時間を作るか、というのを考えました。睡眠時間を削る、みたいなマッチョな方法もあると思いますが、わたしは七時間くらい寝たほうが調子がいいのでそれはナシ。じゃあどうするかというと、いままでやっていたことをやめるしかない。そこで、ちょっとSNSを見る時間を減らして見ようかな、と思っています。
SNS、大好きです。すげー楽しい。いくらでも見ていられる。けど、心から嬉しい! という感じではないし、「今日はSNSやるぞー!」って意図的にやっていることもない。じゃあ何故やるのかというと、たぶん「手持ち無沙汰」になることがストレスなんだと思います。休憩するときとか、いいアイデアが思い浮かばないときとか、「何もしない」をすればいいと思うんだけど、不思議とちょっと物足りないような気持ちになる。疲れたー!って言ってベッドにごろんするときも、ついついスマホを握ってしまう。休憩なんだから、何もしなければいいのにね。それで、ちょっと見始めるとずっと見てしまって、気がつけば1時間! なんてことがよくあります。
意図的に「やめる」というのはわたしには難しい。なぜなら手持ち無沙汰という問題は解決できないから。そこでちょっと試しているのが、SNSのアプリをまとめてフォルダに入れることで動線を遠くすること。そしてkindleアプリを横に置く。無意識に何も考えなくてもできる娯楽に流れがちなんだけど、そのアプリを触ろうとした瞬間に「読みたい本」について思い出すようにした。kindleで読む本についても、「難しいけどためになる本」だと読むのに気合がいって疲れるので、とびきりおもしろいコラム、みたいなものに絞っています。1つのセンテンスを読むのに時間がいらないので切り替えがしやすいし、前後関係を気にしなくて良い。
ここまで書くと、SNSも本も「コンテンツを消費する」面ではそんなに変わらないような気がしてきたけど、本のが後に残るものが多い気がするし、本を読んでいる時間はポジティブで豊かになったような気がするので、それでいい!気持ちの問題!
SNSは何かに似ているなあ、と思うものがあって、それはついついやっちゃう間食である。ちょっとお腹が減ったときにうっかり食べちゃうんだけど、お菓子のそれ自体はそこまで嬉しいものではない。(そりゃあもちろんおいしんだけれど!)けど、ちょっと我慢して、空腹の状態でごはんを味わったほうが、何倍も嬉しく思います。美味しいお店のスイーツを意図的に食べに行くのならいいんだけれど、惰性で食べているものが多いように思う。
しかしながら、SNSにしてもお菓子にしても、意図的にちょっとはガマンしないといけない。そのガマンが、根性じゃなくてシステマティックに解決できるといいんだけどなあ。
ブログを書くのは、自分のため。
なんとなく、人は何かしら表現したいんじゃないかな、って思っています。
絵を描いたり曲を作る、みたいなのはもちろん、instagramに写真をあげたりTwitterでつぶやくのも表現。カフェで他愛のないおしゃべりをするのも、居酒屋で将来のことについて語り合うのも表現。「わたしはここにいるぞ」って積極的に主張するわけじゃないけど、根本ではどこかそんなふうに思っている部分があって、それぞれにぴったりフィットする方法で表現している。
わたしの場合、その方法のひとつにブログがあります。
なぜブログなのかって言われると、素朴に「書くこと」自体が好きなのかも…。決して上手ではないですが、中学生のときに先生に文章をめちゃくちゃ褒めてもらった原体験があって、それをいまでも引きずっているんですね。お恥ずかしいことですが。
わたしは、口頭で表現するのがとっても苦手です。「楽しかった」とか「感動した」なんてのは心の中にプールさせられるんだけれど、その前後関係をうまく繋ぎ合わせられないというか…。聞かれたら答えられるけど、ひとつの文として編んでいくのが瞬時にはできない。(話すのがうまいひとは、どうやっているんでしょうね。話しながら、構成を考えているのかな。)
一方で文章を書くときは、プールされた言葉同士をじっくり考えながらすこしずつ紐付けすることができます。いろんな並べ方を考えて、いちばんしっくりくる順番に並び変えられたら、それが文章になっている。
文章を書いていると、自分で自分に驚くことがよくあります。「この時楽しいって感じたのは、こういう理由だったんだ!」って。文章にする作業をしていると、考えが抜けている部分が浮かび上がってくる。それを埋めるためにあれこれ考えていると、感じたその瞬間には気にも留めなかったことに気がつくようになる。それを繰り返していくと頭が整理されて、自分で自分の感情が理解できる。この瞬間が、最高に気持ちがいいんです。
書くこと自体は自分しか見れない日記帳でもできる。けど誰かに見られることを前提に書いていると、きちんと伝えるために整理作業をしっかりとやるようになります。それから、一度頭の整理ができていると、口頭で話すのがずいぶんと楽になります。書くことで考えが整理されているからでしょうね。
文章を書いた結果、反応が貰えるのはもちろん嬉しい。スターやいいねのために書いてるんじゃないけど、それらが「書くことが好き」という気持ちを継続させているのは間違いない。それから、自分が一方的に好きだと思っている人に読んでもらえると、ものすごく嬉しい。ヤッター!ってガッツポーズしちゃう。これはなかなか、ブログじゃないとできない体験かなあ。TwitterやFacebookは「誰が言っているか」が重要だけど、ブログは「書いてある内容」が重要だから、ぜんぜん知らない人にも届きやすいんだと思います。
インターネットができる前は、書くことが得意でも表現する場所ってあまりなかったんじゃないかな。たくさん表現できるのは話すのが得意な人。けど、さいきんは話すのが苦手な人でも表現できる。「ブログを書くこと」について考えるとき、わたしはそんなことをよく考えます。わたしは良い時代に生まれたなあ。ほんとうにラッキーだ!
そして余談だけど、このブログをはじめた一記事目でも似たようなことを書いていました。
yulily100.hatenablog.jp
三年間で大学を卒業したり就職したり親元を離れたりと、様々なことがあった。(この頃は三年後に京都で働いているなんて思っていなかったし。)色んな人と出会って、色んな経験をして、価値観もかなり変わったんだけど、ブログを読む限り根本的なスタンスはあまり変わってなかった。文章も表現も構成もめちゃくちゃで読みづらいんだけど、考えていることは同じでなんだか愛おしかった。こんなふうに振り返られるのも、ブログのいいところだなって思います。三年前の自分が何を考えていたなんて、なかなか覚えていられないからね。
今週のお題「私がブログを書く理由」
よければこちらも。
yulily100.hatenablog.jp
社会人になってすぐに書いた記事。外的なメリットをメインに書きました。
blog.hatenablog.com
好きなブロガーであるphaさんも「自分のためにブログを書いている」と言ってて、なんだか嬉しかった。この記事は、その嬉しさをしっかり表現したくて書きました。