自分の子に出会った日のこと

2019年9月19日。
ダラダラと続く暑さがパチと切り替えられたかのような爽やかな日。家のすぐそばに咲いた花のピンク色がいつもより透き通って見える。ふだんと変わらない玄関先の風景のはずだけれど、やはり特別な感じがしてしまう。もう進むしかないよっていう、試験の当日の朝みたいな、諦めにも似た清々しさ。

その日はこどもが生まれる日、ということになっていた。
おなかの子は逆子だったので、出産日が予め決められる予定帝王切開になった。妊婦最後の夜には新卒時代から大好きだったすし善のちらし寿司を食べた。夜はもっとどきどきして眠れないかと思っていたけれど、あっさりと朝になっていた。

病院に着き、直前のエコーをしてもらうがやはり逆子。そうだよね、つい今朝もみぞおちのあたりを頭突きしてたものね。この日は朝から緊急の帝王切開手術が入っていたので、わたしたちの手術はそれが終わり次第のお昼過ぎ、ということになった。

手術着に着替えて、ベットに寝かされて、点滴をつけられる。楽しみなような怖いような気持ちでただそわそわと待つ。正午くらいに「たぶん12:20ごろになります」と告げられる。ああ、20分後には十ヶ月近く付き合ったこのおなかともお別れなのか……。

手術がはじまる

手術室までは自分の足で移動する。手術室までの廊下、短めのレースのカーテンがひらひらしていて、日の光はからりとしていて、影がとてもきれいだった。生まれて初めての手術室。真ん中にはテレビで見たことあるような仰々しい台。でもまわりにはファイルなんかが置かれていて、想像よりかは事務室みたい。

台によじ登る。心電図やらなんやらの特別な機械が体に貼られる。背中をひんやりと消毒してもらい、体育座りのような体勢で背中をまるめる。麻酔の針が背中に刺されるのは、痛いというより電気がぴりと走るような感じ。
ちょっとすると背中にあたたかいものがじんわりと広がる。すぐに足がビリビリとしびれて動けなくなる。体に保冷剤を当てられて、冷たいか冷たくないかを答える。腕には冷たさがあるが、胸から下にはもう感じられなかった。

布で覆われていて私の方からは見えないが、どうやら体の一部が切られているらしい。当然だけど麻酔で痛みはなくて、おなかを何かでぎゅっぎゅっと押されているような感覚だけがある。ほどなくして夫が手術室に呼ばれた。(この産院では家族の立ち合いを推奨しているので、帝王切開でも夫の立ち合いができた。)

紫色の生き物

……生まれた。ほんとうに一瞬だった。
取り上げられたばかりの赤ちゃんは紫がかったうすいグレーで、白樺のような色で、血まみれで、おへそに管なんかつけてて、怪物みたいだった。

びっくりするくらいの力強い産声。声の小さい二人の子どもだし、新生児なんてふにゃふにゃ泣くものだと思ってたから、生まれて最初に発する声が、こんなにも目が覚めるものなのかとびっくりしてしまった。

赤ちゃんからしてみればさぞかしびっくりしただろうな。いつも通りぬるいお風呂みたいな子宮で機嫌よくしてたのに、何の前触れもなく呼吸の方法すら違う世界に連れて来られてしまって。自然分娩であれば赤子もそれなりに覚悟できたんだろうけど、そこはごめんな。そして赤ちゃんはこんなにも天地がひっくりかえるようなことが起こっても、泣く方法は知ってるんだな。
高く掲げられた紫の生き物を見ながらそんなことを考えていた。同時に涙がほわっと滲む。わたし、きょうは寝ていただけなのにね。

はじめて触れる

麻酔が効いて動けないので、台で転がしたりしてもらいながらベッドに移動する。手術室から病室へとゴロゴロと押してもらう。ああ、さっきのあの廊下。ついさっきまではおなかに赤ちゃんがいたあの廊下。途中で夫が駆け寄ってくる。嬉しそう。よかったな。

病室に入ってちょっとすると、きれいに包装された赤ちゃんが顔の横に置かれた。これがつい数時間前までわたしと血を共有していた生き物なのか。赤子は助産師さんに支えてもらいながらはじめての乳を吸った。自分でもよくわからないあつい何かが込み上げてくる。ああこれ、きっと巷でいう「尊い」って感覚だ。三十年近く生きているのに、まだ初めて体験する感情があるんだな。

赤子はまたどこかに連れて行かれて、体の動かないわたしは助産師さんに全力でお世話をしてもらう。誰かに全身を丁寧に触ってもらうのはこんなにも心地よいものなんだな。足が動かないのをいいことに夫にも全力で甘えた。赤ちゃんが生まれたのは昼なのに、そのあとはほとんど記憶がないからだいたいは眠っていたのだろう。覚えているのはものすごく寒くて毛布を首までかぶったことくらい。麻酔がちょっと切れてきた瞬間はなぜかものすごく快感で、不思議な夜だった。

自分の子に出会った日のこと

とにかく、夢みたいな日だった。
ものすごくあたたかくてありえないほど幸せ。これまでにも幸せなことはたくさんあったけど、幸せの次元が違うみたいだった。指の先まで満ち足りていた。
こんなにも幸せな出来事がこの世には存在するのだな。はじめまして、ありがとう、赤ちゃん。
この日のことを思い出すだけでこれからもずっとやっていけそう。それくらい電気が走るような日だった。