秋の隣で

8月31日というのはなんだかずるい。字面がまずずるい。こちらの気持ちなんておかまいなしに「夏」の終わりはここです、と、宣言しているかのようなずるさ。それでいて、実際は夏なんだけど夏じゃないようなおかしさもある。朝晩なんかは涼しくて、薄手の毛布に丸まって寝る。昼間の日差しは暑いけれど、日陰に入ると涼しい。昼休みにすこし散歩して、御所のベンチでぼーっと花が揺れるのを眺めていた。夏の終わりを自負しながら、吹く風はすでに夏じゃないんだもの。


たくさんお酒を飲んで知らない間に眠ってしまった次の日、ふと目を覚ますと、目の前ですきな人が眠っていた。かわいい顔をしていた。なんということでしょう。起きるのがもったいなくなって、わたしはまた目を閉じる。ちょっとしてからまた目をやると、変わらず同じ様子で眠っていて、ほわほわとした気持ちになって、やっぱり目を閉じてしまう。特別なイベントでもなんでもないはずなのに、こんなに嬉しいことがあるなんて。こそばゆい時間を繰り返しているうちに、なんだかおなかが空いてくる。あいふぉんを見ると12時を過ぎている。すこしの気だるさは、前日飲みすぎたせいなのか、夏の暑さのせいなのか。ベッドに腰掛けてくつしたなんかを履いて、簡易版の身支度をする。

玄関の扉を開くと、風が吹いていた。
その風は、いままでの長くて険しい暑さを一瞬で忘れさせるようで、なんだか嬉しいような惜しいような。夏のいろんなものを持って行ってしまうようだった。そうか、もう8月も終わりだもんね。終わろうとしている季節の一日に、読んだばかりの歳時記の、知ったばかりの季語を使って俳句を作った。

まどろみを 破る空気に 秋隣る


「秋隣る」というのは、秋っていう字が入っているけれど夏の終わりを表す季語。秋の訪れを感じる時分をいうらしい。「隣」ということばに、隔てるものは壁一枚しかないような、すぐ近くにぴったりとひっついてるような親しみがあると書いてあった。さりげない一文字なのに、距離の近さを感じられてとてもかわいい。別のサイトを見ていると、同義語の「秋近し」は、こよみの上で秋が近いことだけど、「秋隣る」は、肌で感じる近さだと添えられていた。息が聞こえるくらい近くで眠ることと、肌で感じられる秋の近さをかけて、「秋隣る」を使った。以前にも俳句を作ったことがあるのだけれど、そのときも夏の終わりだった。明日から9月が始まります。

味噌汁が好きだ

味噌汁が好きでよく作っている。半年くらい前までは出汁をとったことすらなかったのだけれど、すっかり夢中になってしまった。今では冷蔵庫に味噌を4種類ストックしているくらいだ。こないだ飛騨に行ったのだけれど、自分へのおみやげには迷わず味噌を買った。昨日作ってみたら、そこそこ気に入るものができたので、この半年で試したことを書いてみようと思う。

出汁

  • 昆布と煮干しを一晩水出ししたものを使っている。
    • 作る前日の夜に、水に昆布と煮干しを突っ込んで冷蔵庫で放置する。
    • 一日以上置くと煮干しのクセが出てあまりおいしくない。
    • お茶を入れるような細長いポットに入れると冷蔵庫で場所を取らない。
  • 昆布のだしだけで作ってみたこともあったが、上品すぎて物足りなかった。
  • 鰹節のだしも試したが、火に通したりこしたりするのが面倒。
  • 「だし」として売られているものは試したことがない。

味噌

  • 2種類以上を混ぜるとおいしい。
    • 米味噌と麦味噌を混ぜるのがオーソドックスなのかな?わたしは甘めの米味噌が好きなので、米味噌同士を混ぜたりしている。
    • スプーンを洗うのが面倒だから3種類ということはあまりない。
    • 1種類だけだとシンプルで物足りない。
  • 味噌自体にはそこまでこだわっていない。適当に買ってる。

具材

  • 油揚げが好きなので大体入れてる。
    • 1枚買ってきて、湯通しして、三等分して、余りは冷凍している。
  • 季節のものを入れると盛り上がる。
    • 春は菜の花、夏は茄子、冬は大根とか。
  • 歯ごたえが違うものを入れるとおいしい。
    • 茄子を煮るとヘナヘナになっちゃうんだけど、焼いたものをあとから入れるとしっかり茄子の味がして美味しかった!
  • カラフルになるとより楽しいけど、面倒なのでそこまで気にしない。

仕上げ

  • 出来上がってからスプーン一杯程度の油を入れるとコクが出ておいしい。
    • サラダ油はわりと無味無臭なのでイマイチかも。
    • 今はなたね油かひまわり油を使っている。なたね油の香りが好き。前に落花生油入れた味噌汁がおいしかったので試してみたい。
  • お椀に盛ってから刻みネギを入れるとシャキシャキしておいしい。
    • 上に書いたように、歯ごたえが違うものが入っているとおいしい。
    • ネギ刻むのはだるいので刻まれたやつを買っている。
  • 冬は柚子の皮を乗せたりするが、刻むのが面倒で困る。


こんな感じであれこれ試している。極力だるくないようにしたい。わたしは味噌汁のことをおかずの1種類として考えているので、少し濃いめに作っているけれど、汁物として考えるなら薄めのほうがいいかも?
何かいい味噌汁アイデアがあればとても知りたい!
旅行するたびに各地の味噌を買ってまわりたいな。


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今宵堂の千鳥皿

四月にお皿を注文した。「今宵堂」さんの「千鳥皿」というお皿である。
今週の頭に焼きあがったという連絡が来たので取りに行った。

一枚でも良いけど二枚ならべると夫婦のようでまたかわいい。
何を乗せると引き立つかしら。今宵堂は酒器をつくる工房だから、やはりアテを盛り付けるのがいちばんしっくりくるのかな。
下鴨神社のみたらし祭りで買った米ワインが家にあるから、それに合うなんだかすてきなもので最初を飾りたい。


わたしが今宵堂のことを知ったのは、この記事がきっかけだった。

夫婦が営む京都の酒器専門店・今宵堂が提案する「毎日が楽しくなるお酒のある生活」 - 特集 - HereNow Kyoto(ヒアナウ京都)


賀茂川のほとりで夫婦で酒器の工房をしている、それだけでずいぶんとすてきだ。けれどそれ以上にわたしが感銘を受けたのが、毎日必ず「晩酌」をしている、ということ。
記事を読む限りの情報しかないけれど、二人にとっての晩酌は儀式のようである。食事の前に少しだけ飲んで、一日をリセットする。晩酌という行為が、日々を幸せにする。
今宵堂のSNSを覗いていると、「晩酌」は家で自分で作った酒器を使っていたり、居酒屋で揚げ物だったり、はたまた川でハンバーガーだったりする。そのくらいの気取らないラフさがまた、豊かで愛おしい。


25歳になったくらいから、豊かに暮らすには一日一日を楽しくするしかないんじゃないかなあと思うようになった。
それまでは、どうしても他人が羨ましく見えるし、たくさん稼いでたくさん贅沢したい、もっと、もっと…… なんて考えていたけれど。
自分を満たすのは自分のみである。他人でもモノでもない。日常のなんでもない瞬間をどれくらい大切にできるか、なんじゃないかと思う。

そして、今宵堂のふたりは、それぞれの必要十分を知っている。多すぎでも少なすぎでもなく、ちょうどよい加減を知っている。たまらなく粋なひとたちだ。
そんな暮らし方はわたしの理想のひとつである。

www.koyoido.com

名前をつけてやる!

スピッツに、あんにゅいな猫がジャケットになっている「名前をつけてやる」っていうアルバムがある。このアルバムに入っている「名前をつけてやる」っていう曲ががすごく好きだ。ことばをころころ転がすような歌詞がいい。それで、この曲が原因かはわからないけど、名前をつけてやる!って言いたくなることがある。人に対してなのかモノに対してなのか。それとも気持ちとか触感みたいに、目に見えないものに対してなのか。名前をつけるのはなんだか儀式のような行為である。不確定なものは、不確定だから扱うのがむずかしいけど、名前をつけると輪郭が見えるようになる。誰かに何かを伝えるとき、名前がついていないことを伝えるのは難しい。いいことばかりかと言われると、そうでもないかもしれない。ぼんやりとしているからいいこともある。幸せだとか嬉しいとかいうきもちは、ぼんやりふわふわとしているのに、この感じには四文字の名前しかついていない。四文字を唱えるあいだにほんとに伝えたかったぶんの少しは減っているんじゃないか。それから、一度定義してしまうとその呪縛から逃れにくくなる。花を活けるための道具には「花瓶」という名前がついているけど、花瓶という名前に惑わされて、部屋に花を飾るのには何か筒状のものが必要な気がしてくる。ほんとうは花のある良い空間が作れればなんでもいいはずなのに。そういうわけで、名前をつけるのはちょっと呪いに似ているのかもしれない。だから、名前をつけてやる!っていうのはなんだか力強くて緊張感のある言葉だと思う。そしてわたしはそういう気持ちになることがある。


名前をつけてやる

名前をつけてやる

アルバムのネコ


これはなんの関係もないけどこないだ見かけたあんにゅいなネコ

こんな日はデルタに行ってしまう

今週はちょっと大変な一週間だった気がする。お昼過ぎに胃がいたくなるとか、食欲が湧かないとか、微熱が続くとかそういうの。木曜に目が見えにくくなったり、金曜にヘトヘトになったりで、ちょっと休憩しようかなあと思った。精神的にはずいぶん元気になったんだけど。三連休は大好きな島に行く予定だったけど、やめにして家でゆっくりとしていた。

今日はちょっとやなことがあってウワアとなっていた。ほんとなら我慢するようなことだけど、今日ばかりはちょっとわがままになってもいいかなと思って子どものふりをした。嫌な性格。そしてさめざめとデルタに向かった。こんな日はデルタに行ってしまう。みじめな気持ち。すごく疲れていた。去年の大晦日にメソメソしながらネギを買いに行ったことを思い出していた。だけどデルタはそんなことなんておかまいなしに、真夏のいい昼下がりで、キラキラとしていた。甘ったるい缶チューハイを空けながらうなだれていた。

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今日で一区切りだ。なんだか、いろいろあったなあ、と思う。いいことも悪いことも。痛いなー、起こさないでよ!って思いながらも、魂を揺さぶられて目を覚ます。目を覚まして、自分は何を大切にしていきたいかを意識するようになった。人のために何かすることについて考えるようになった。ずっと向き合っていかないといけない弱点にも気付かされた。苦しいこともあったけど、この期間があって良かったと思っている。つねに焦っていて、つねに走っていた。じぶんで言うのもなんだけどすごくがんばったと思う。本当に疲れてしまっているが、少しずつ進めている。それでいいんだと思う。

雨とドビュッシー

夏の朝はどうしても早くに目覚めてしまう。大音量で蝉が鳴いていたりして威力全開だ。汗びっしょりで、自分が持っているエネルギーを感じる。なんだかさっぱりとしている。何もしていないのに、ジョギングのあとみたいだ。生きている、さあ今日も一日が始まる! って感じ。今の家に住んで最初の夏が来て初めて気がついたけれど、わたしはこの瞬間が好きなようだ。

今朝も違わずそうだった。雨の音に、神経がカッとなって、さぁ朝だと思った。
前に住んでいた家は、車の走る音や救急車両のサイレンばかり聞こえた。わたしはそのことがとにかくストレスでストレスで仕方なかったんだけど、今の家はそんなことはない。今日なんかは、雨の音と、葉が揺れる音と、鳥の鳴く音の三つだけ。ザアザアと降っていて、無性にクラシックが聴きたくなってショパンを流してみた。ちょっと違うと思ってドビュッシーに変えて、ああこれだと思った。雨の音と相まってすごくうっとりとする。恍惚とした気持ち。

それから、花器の水を替えて水周りの掃除をしてみたけど、なんだかだるい。ゴミくらいまとめようと思ったのだけれど。体温計を咥えてみると、37.02度で、ちょっとだけ体温が高いようだった。さっとあきらめて、ソファにごろんとなりながら本を読む。リルケの「若き詩人への手紙・若き女性への手紙」という本だ。女性の運命とは何か、という章が面白かった。短い本なのに難しくて、読むのに何日もかけていたけど、家を出るちょうどその時間に読み終わった。

雨のドビュッシーと、けだるい体と、本を読み終わることが重なって、今日はなんだかすごい日だ…!と、ちょっと興奮しながら家を出た。

電話したくなることがある

電話はなんだか、暴力的な感じがする。不連続。それまでの日常なんておかまいなしにコール音が鳴る。家で本を読みながらゆっくりしてようと、居酒屋で友人と近況報告していようと、帰宅の電車についていようと関係ない。あ、電話だ! って思ってびっくりする。電話じゃないといけないなんて、何か悪いことでもあったんじゃないかと思う。取れないとなんだか申し訳ない気持ちになる。電話をかけ直すのも億劫な感じがして、ついついそのままにしてしまう。

そんなことを考えておきながらも、電話をしたくなることがある。誰かの声が聞きたくて。ひとりよがりな話を聞いてもらいたくて。
文脈を奪ってしまうことをわかっていながら発信ボタンを押す。
忙しかったかな…? なんて、ふと我に帰り後悔する呼び鈴五回目、「もしもし…?」と、ちょっと不思議がる様子で電話が繋がる。
その時間だけは、相手を独占するようで、いじわるで卑しくて、ぜいたくな気持ち。
自分はなんていやなやつなんだろう。けど、すごく嬉しくなって、他愛もないことをたくさん話す。
それから満ち足りた気持ちになって、電話を切った。

七夕のふつうの日

目が覚める。汗はびっしょりだけど、さわやかな気持ち。暑さのせいか、朝はすっと起きられる。先週買った花がついに落ちてしまったので、フラワーベースを洗った。花がこんなに楽しいものなんて知らなかった。ユリの季節が終わらないうちに、また買って来よう。
朝は、レースのカーテンまで全開にして、外の様子を見る。葉が揺れる音を聞く。それから、パンを焼いたり着替えたり、ドタバタと準備をする。お化粧を始めるときに、窓を閉めて冷房をつける。ちょっと甘やかせてやる。洗面台から化粧ポーチを持ってきて、姿見の前に正座する。スーッと気持ちのいい空気がやってきて、ああ、今日も一日始まるんだと思う。わたしは、夏のこういう瞬間が好きだ。夏の好きな部分を挙げるときりがないけど。


昨日の夜は会社でお酒を飲んでいた。同僚に「最近いいことあった?」って聞いたら、「家の近くにおいしい中華料理屋さんがあることに気がついた」って言った。質問の仕方としては、抽象的でふわっとしていて、あまり良くはない。けど、同僚はこんなふうに、些細だけどちょっと楽しい気持ちを教えてくれるので、ついつい聞いてしまう。感じ方のすてきな人。いつもクスッとなるようなことを教えてくれて、すごく楽しい。会社にいるのに、女の友達とふたりで話すように会話をする。こそばがゆいような感じ。


今日は商店街の七夕祭りを通り抜けてきた。すごい、見渡す限り子供子供子供。地域の大人達と楽しそうにやっている。京都のこういう「まち」の感じが好きだ。フランクフルトを食べながら短冊を眺めると、「カセットがクリアできますように」って書いてあった。ゲームか何かかな。カセットという概念はとっくに消えたと思ってたから、なんだか可笑しかった。

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花の蕾が開くまで

蕾のある花を買った。大事に家に持って帰って、花器に移すとき、わたしは太宰治の「晩年」の書き出しのことを思い出す。わたしはこの「葉」の一文が好きでたまらない。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。


この蕾が花開くまでは、生きていよう、と思う。死ぬ気なんてないけれど、死ねない。ぜったいに死なない。蕾が膨らんでいく様子を、わたしが見なくて誰が見るのか。些細なことだけれど、こんなことを重ねているから、なんとか日々を過ごしていけるのではないか。


今朝起きると、こないだ買ったユリの最後の蕾が開きそうになってて、ウワァ!って声が出た。緑の楕円形だったものは、口が割れたようになって、濃い色したおしべを覗かせている。ほんとなら、ユリのおしべは取ってしまうそうだけれど、わたしは純白の花びらと強烈な色のおしべとのコントラストが好きだからそのままにする。花の変化というのは、誰かに無性に伝えたくなる。まだ咲いてすらいないのに。実家に帰るたびに、母親が育てた植物の話ばかりする理由がわかったような気がした。


わたしは相変わらず波が押したり引いたりするような感じがするけど、蕾は咲くし、先週作った青タンは消えていくし、夕立が来る季節になるし、先月漬けた果実酒は熟していくのである。毎日何も変わらないようで、同じところはひとつもない。小さな変化にも、きれいな名前をつけていきたい。


雨の匂い

京都へ向かう電車の、一番うしろの車両で、母親にはLINEを、父親にはメールを書いていた。今日の出来事を伝える。「さっきお母さんから聞いたんだけど…」という、十五分前に母親に伝えた内容を引用する父親の文面。二人とも同じ場所にいて、それぞれに違う文章を書いているのに、けっきょくそれぞれの内容が二人ともに伝わっているのが可笑しい。今日の大阪はジリジリとした暑さだった、なんて話をしていた。

京阪特急が少し進んでは扉が開く。北浜、天満橋、京橋、枚方市、樟葉。ぼんやりしていると京都に入っていた。と、次の瞬間、むわっと雨の匂いがして顔を上げた。外は晴れているけど、独特のあの匂い。夕日と相まって、電線がキラキラ光っている。このとき、なぜかはわからないけどす、すげえ…! ととてもびっくりした。やわらかい光が地面に暗いところと明るいところを作っているのを、車掌席を通して見ている。手前の席ではネコみたいな顔した男の子が眠りこけていたけれど、かれは最後の駅まで起きなかった。