電話したくなることがある

電話はなんだか、暴力的な感じがする。不連続。それまでの日常なんておかまいなしにコール音が鳴る。家で本を読みながらゆっくりしてようと、居酒屋で友人と近況報告していようと、帰宅の電車についていようと関係ない。あ、電話だ! って思ってびっくりする。電話じゃないといけないなんて、何か悪いことでもあったんじゃないかと思う。取れないとなんだか申し訳ない気持ちになる。電話をかけ直すのも億劫な感じがして、ついついそのままにしてしまう。

そんなことを考えておきながらも、電話をしたくなることがある。誰かの声が聞きたくて。ひとりよがりな話を聞いてもらいたくて。
文脈を奪ってしまうことをわかっていながら発信ボタンを押す。
忙しかったかな…? なんて、ふと我に帰り後悔する呼び鈴五回目、「もしもし…?」と、ちょっと不思議がる様子で電話が繋がる。
その時間だけは、相手を独占するようで、いじわるで卑しくて、ぜいたくな気持ち。
自分はなんていやなやつなんだろう。けど、すごく嬉しくなって、他愛もないことをたくさん話す。
それから満ち足りた気持ちになって、電話を切った。

七夕のふつうの日

目が覚める。汗はびっしょりだけど、さわやかな気持ち。暑さのせいか、朝はすっと起きられる。先週買った花がついに落ちてしまったので、フラワーベースを洗った。花がこんなに楽しいものなんて知らなかった。ユリの季節が終わらないうちに、また買って来よう。
朝は、レースのカーテンまで全開にして、外の様子を見る。葉が揺れる音を聞く。それから、パンを焼いたり着替えたり、ドタバタと準備をする。お化粧を始めるときに、窓を閉めて冷房をつける。ちょっと甘やかせてやる。洗面台から化粧ポーチを持ってきて、姿見の前に正座する。スーッと気持ちのいい空気がやってきて、ああ、今日も一日始まるんだと思う。わたしは、夏のこういう瞬間が好きだ。夏の好きな部分を挙げるときりがないけど。


昨日の夜は会社でお酒を飲んでいた。同僚に「最近いいことあった?」って聞いたら、「家の近くにおいしい中華料理屋さんがあることに気がついた」って言った。質問の仕方としては、抽象的でふわっとしていて、あまり良くはない。けど、同僚はこんなふうに、些細だけどちょっと楽しい気持ちを教えてくれるので、ついつい聞いてしまう。感じ方のすてきな人。いつもクスッとなるようなことを教えてくれて、すごく楽しい。会社にいるのに、女の友達とふたりで話すように会話をする。こそばがゆいような感じ。


今日は商店街の七夕祭りを通り抜けてきた。すごい、見渡す限り子供子供子供。地域の大人達と楽しそうにやっている。京都のこういう「まち」の感じが好きだ。フランクフルトを食べながら短冊を眺めると、「カセットがクリアできますように」って書いてあった。ゲームか何かかな。カセットという概念はとっくに消えたと思ってたから、なんだか可笑しかった。

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花の蕾が開くまで

蕾のある花を買った。大事に家に持って帰って、花器に移すとき、わたしは太宰治の「晩年」の書き出しのことを思い出す。わたしはこの「葉」の一文が好きでたまらない。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目しまめが織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。


この蕾が花開くまでは、生きていよう、と思う。死ぬ気なんてないけれど、死ねない。ぜったいに死なない。蕾が膨らんでいく様子を、わたしが見なくて誰が見るのか。些細なことだけれど、こんなことを重ねているから、なんとか日々を過ごしていけるのではないか。


今朝起きると、こないだ買ったユリの最後の蕾が開きそうになってて、ウワァ!って声が出た。緑の楕円形だったものは、口が割れたようになって、濃い色したおしべを覗かせている。ほんとなら、ユリのおしべは取ってしまうそうだけれど、わたしは純白の花びらと強烈な色のおしべとのコントラストが好きだからそのままにする。花の変化というのは、誰かに無性に伝えたくなる。まだ咲いてすらいないのに。実家に帰るたびに、母親が育てた植物の話ばかりする理由がわかったような気がした。


わたしは相変わらず波が押したり引いたりするような感じがするけど、蕾は咲くし、先週作った青タンは消えていくし、夕立が来る季節になるし、先月漬けた果実酒は熟していくのである。毎日何も変わらないようで、同じところはひとつもない。小さな変化にも、きれいな名前をつけていきたい。


雨の匂い

京都へ向かう電車の、一番うしろの車両で、母親にはLINEを、父親にはメールを書いていた。今日の出来事を伝える。「さっきお母さんから聞いたんだけど…」という、十五分前に母親に伝えた内容を引用する父親の文面。二人とも同じ場所にいて、それぞれに違う文章を書いているのに、けっきょくそれぞれの内容が二人ともに伝わっているのが可笑しい。今日の大阪はジリジリとした暑さだった、なんて話をしていた。

京阪特急が少し進んでは扉が開く。北浜、天満橋、京橋、枚方市、樟葉。ぼんやりしていると京都に入っていた。と、次の瞬間、むわっと雨の匂いがして顔を上げた。外は晴れているけど、独特のあの匂い。夕日と相まって、電線がキラキラ光っている。このとき、なぜかはわからないけどす、すげえ…! ととてもびっくりした。やわらかい光が地面に暗いところと明るいところを作っているのを、車掌席を通して見ている。手前の席ではネコみたいな顔した男の子が眠りこけていたけれど、かれは最後の駅まで起きなかった。

水無月

あたらしいアクセサリーを初めてつけて行く日は、いつだって特別で、なんだかうきうきとしてしまう。ちょっとだけ早起きをして、ちゃんとお化粧をして、髪を巻いて、コンタクトをつける。どこにも行く予定なんてないんだけどね。ショーウィンドウのガラスにうつる自分もなんだか元気そうである。

会社で、水無月という和菓子が振る舞われた。最近まで知らなかったのだけれど、京都では6月30日に水無月を食べる習慣があるみたい。夏越祓(なごしのはらえ)という、半年間の汚れを祓い清めて無病息災を祈願する行事だそうだ。総務の方の粋なはからいで、食後にひとついただいた。仙太郎の抹茶味、おいしかった。ほんとうは白いものを食べるそうなんだけど。

京都生まれの同僚が言う「水無月を見ると、もう今年も半分終わりなんだなあって思う」というひとことがなんだかおかしかった。京都は季節にあふれているなあとしみじみ思うけど、モノにまで季節が結びついてるのね。和菓子を見て、明日から祭だ!なんて思ったこと、一度でもあっただろうか。

夏越祓が気になって、帰りに茅の輪(ちのわ)くぐりをしに近くの神社に寄った。きちんとした方法で、うまくくぐれるかしら?と心配しながらも、楽しみに向かうと神社は閉まっていた。会社出るのが遅くて、20時をすぎてしまったから仕方ないね。来年こそは、くぐってみたい。


赤丸

LINEの赤丸はいつでもうれしい。LINEには、変なスタンプを送りあってもいい関係の人しかいない。今日買ったもの報告とか、グループで旅行に行く計画を立てるとか、親からのおでかけのお誘いとか、そういうの。そんなの良い知らせに決まってる。Facebook Messengerは、ときどきそうじゃないのも来る。資料を送ってくださいとか、ちょっとした営業とか。もちろんいいのもたくさんあるけど。あ、メッセージが来た。どきどきしながらメッセンジャーアプリを開いてみる。あっ、良い知らせだった。よかったー。

Twitterをやめてみて、かわりに誰かにメッセージを送ることが増えた気がする。つい先日、今日うなぎ食べたーって話のあとに陰翳礼讃に出てくる京都のお店の話になって、調べてみたら、そこがたまたまうなぎ屋さんであることに気がついて、ミラクルじゃん!って思った。Twitterみたいに、不特定多数にむけて短い文を書くんじゃなくて、その時その瞬間だけのコンテキストを、ふたりで共有する。べつに秘密じゃないけど、秘密みたい。誰も知らない。ほんとは、メッセージの内容をここに書くのも野暮だけど、なんだかとにかくすごい気がして、書いてしまった。けどこれが最初で最後にする。

今日の朝、パンを食べて、味がしない!って思った。2,3日こういうのが続いて、困ったなーどうしたもんかなーと思ったけど、お昼になったらちゃんと味がして良かった。このまま味のない世界に生きるなんて!と、クラクラしそうだったけど、なんとか戻ってこれた。味の無い世界は、あまりにも色がない。

休息

1ヶ月前くらいからバランスを崩し始めて、なんだか落ち込むようだった。よくわからないが不安感があり、ウワーとなって、その不安を埋めるように酒を飲んだ。缶をあけるときのプシュという音が好きで、その音を聞いてると、久しぶりに楽しくなり、飲み過ぎてしまった。ダメな感じ。そのあとあまり覚えてないけど気がついたら外で、知らない場所にいて、財布はなくて、携帯の電池は切れて、めちゃくちゃ怖かった。道もわからずひたすら歩き続けたら夜が明けていって、すっかり朝になった。ようやく知ってる道を見つけて、歩き続けて、家にたどり着いた。心身ともにドロドロになった。そんなこともあり、ここ2,3日あまり眠れなかったり、味がわからなくなったり、うまく話せなくなっていた。ランチの皿をひっくり返すなど、ちょっと疲れている感じ。休憩したほうが良い気がして、今日は会社を休んでゆっくりしていた。疲れているので、という理由で休める会社で本当に良かった。

1日の終わりに花屋に向かおうとぶらぶら歩いていると、目の前をころんと転がるものがあり、よくみると緑色した実だった。見上げると、その実が生る木があった。何十回とそこを通っているけど気が付かなかった。それから、花屋につくと、ここぞとばかりに百合を買った。なんだかパワーのある花である。小さい頃、はじめて自分と同じ名前の花を見た時、なんてご立派な花なんだ、と思った。ソファでごろんとしていると香ってくるこれは、花の香りなのかしら。今朝読み終わった太宰治の「女生徒」によると。幸福は一夜おくれて来るらしい。わたしはこんな感じだが、なんとかやっていくしかない。つぼみ、早く咲かないかな。

はずれの数字

炭酸が飲みたくなって自販機でジュースを買う。商品を取り出すと、ピピピピピという音がする。スロットがついてて、当たりだったらもう一本貰える自販機ってあるでしょ。どうやらそれだった。

四桁の数字が光る。「111…」まで出ている。最後の一桁、1が出るかどうか。期待せず眺める。

「1112」

あっ、はずれだ。けど、その四桁の数字を見て、少しだけニヤリとした。その数字は、わたしにとっては特別なのである。なぜなら、わたしの誕生日は11月12日だからだ。はずれたけど、1111が出た時よりも、ニヤニヤとしていたと思う。

なんでもない瞬間に名前をつける

スケロク君という人がいる。なぜスケロク君と言うのかは知らない。かれが「ゆりりーさん(私)におすすめの本があるので今度あげます」というので、楽しみに待っていた。自由律俳句の詩集だった。

それは、「カキフライが無いなら来なかった」という本である。おもしろくてすぐに読んでしまった。俳句と言うと、四季の情景とか温度とか感覚を思い浮かばせるようなことばを使って、みずみずしく詠うものを思い浮かべるが、これは普段の何気ない瞬間を切り取ったもの。

読んでいて一番驚いたのは、こんなになんでもない瞬間に名前をつけてもいいんだ……! ということである。よくよく考えると(?)そりゃそうなんだけども……。何かを作ろうとすると、なんだか耳障りの良さそうな「正義」を作らないといけないって思っちゃうじゃない。あ、そうでもないか……。

それで、そうかと思えば「桜」や「入道雲」や「毛玉」といった単語がふと出てきたりする。「灯油のメロディ」というフレーズだけで、冬の澄んだ空気や、彩度が低めの情景が頭に思い浮かぶ。この本には、現代の都市の四季が詰まっているようだった。

読んでいてなんだか詩を作りたくなってきた。とりあえず一昨日の雨の日の夜中に布団の中で思った「『バケツをひっくり返したような雨だね』と言う相手がいない」というのをあいふぉんにメモした。この本を読んでから、近所にある古い商店の看板のフォントが丸文字だったとか、地下鉄から地上に上がるときの階段に入りこむ光が眩しすぎるとか、かなりどうでもいいことが気になるようになった。こんな瞬間を言葉にしていいなんて知らなかった。


なぜこの本をおすすめされたのかはわからない。Amazonでさえ、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」とか「あなたのお買い物傾向から」だとか、おすすめする理由を教えてくれる。けど、なぜ勧めたのかを聞くのは野暮なので聞かない。

箱と花

祖父の箱に花を入れるとき、その強さに驚いた。

生花を扱うときはいつだって、繊細なものとして扱っていた。壊れてしまわないように。散ってしまわないように。ていねいに、ていねいに。

だから、わたしは花の生命力のことを知らなかった。握ってみてはじめて、そのみずみずしさに気がつく。

なんだかちぐはぐだな、なんて思いながら、箱を花でいっぱいにした。